木の語らいに耳を傾けてみる 人生を照らす言葉 連載
2014/03/17
文学博士 鈴木秀子氏が月刊誌「致知」に連載執筆している
「人生を照らす言葉」の中の一文を紹介したい。
40数年「木」との関わりを生業としているが、この詩を読んで、私たちの生き方にも通じると感じました。
詩の解説は、長文でありましたので一部を抜粋して掲載しております。
『木』 詩人でもあり随筆家、翻訳家としても知られる田村隆一(1923~1998)
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁(ささや)いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸い上げて
空にかえすはずがない
若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星のひかりのなかで
目ざめている木はない
木
ぼくはきみのことが大好きだ
太古から木は人間と密接な関係にありました。私たちはいちばん身近にある木を通して 大自然と交流し、そこにある命を感じ取っています。日常生活で「木の温もり」という言葉を よく使いますが、金属やプラスチックの椅子、テーブルにはない温もりや命を甦せ、癒してくれる力を木製の家具から感じ取れるのは、私たちが大自然と交流している証拠なのです。
寺社など歴史的建造物にしても同じことがいえるでしょう。奈良の正倉院を訪れた人であれば、 縦横に組み合わされた木の命が千年以上生き続けていることを理屈抜きに感じるに違いありません。
皆さんは木や草花は人間の気持ちがわかるという話を聞かれたことはないでしょうか。 「可愛いね」 「よく育ってね」と話しかけながら育てていたところ、花たちは見る見るうちに元気になっていきましたと。
北海道の白樺はとっても折れやすい性質を持っており、そこで強風でも倒れないように、 五、六本がお互い絡み合うようにして生長するのです。これも木同士、健気に意思を通わせているのでしょうか。 自然の神秘にはただ驚かされるばかりです。
木は愛とか正義とかわめかない
このように木は黙っているから、歩いたり走ったりしないからといって、決して無機質的な存在というわけなく、生命力に満ち溢れているのです。作者の田村氏はミステリー小説の翻訳で知られ、私生活面でも破天荒の人生を送った人ですが、詩人が持ち合わせる少年のような純真な心で木々のメッセージを掴み取っていったのでしょう。
私は「木は愛とか正義とかわめかない」という一説を読みながら、東日本大震災の被災地を訪れた時を思い出しました。被災地では何人もの方から「正義をかざす人ほど困ったものはない」という声を聴きました。被災地に乗り込んで一方的に放射能の恐怖などを声高に叫び続けるような人たちをたくさん見てきたというのです。正義を口走った時に生まれるのは調和ではなく、分裂や闘争心。だから、「正義とわめかないでほしいと頼みたくなる」というのが被災地の方々の本音でした。
正義を振りかざす人たちを見つめながらも、木々はただ黙ってそこに立っているだけです。「その考えが正しい」とも「間違っている」とも主張するわけではありませんが、深い心でその声を感じ取っていくと、大自然の心が伝わってくるはずです。愛とも正義とも言わないけれど も、それらのすべてを包み込むような大きさや豊かさのようなものが感じられるのではないでしょうか。
「木はたしかにわめかないが/木は/愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて/枝にとまるはずがない/正義そのものだそれでなかったら地下水を根から吸い上げて/空にかえすはずがない」
大学のキャンパスのある樹齢何百年という木の傍に立っていると、作者と同様、無言のままメッセージを発し続ける木の姿は、無言の安堵感や癒しを与える神からの愛を送り続けていると実感します。 木々の囁きを通してより身近に感じる気がするのです。
誰一人として同じ人はいない
このように一本の木を通して私たちは多くの心理を学び、感じ取ることができます。作者は「地下水を根から吸い上げて空にかえす」という木の働きを思いながら、すべては大自然の中にに生かされており、その調和力を発揮することが正義であるという考えに至るのですが、これもその気づきの一つでしょう。
私は以前、台湾の中学校を訪問した時、十㍍も二十㍍も間隔をおきながら校庭に木を植えている様子を見ました。垣根になるような木や防風林になる木は間隔を空けないというイメージがありましたから、不思議に思って校長先生に聞いてみると、「この木はとても高く育ちます。一番高くなった時の約3倍の長さの土地を与えないと根が張れなくなるのです」という答えが返ってきました。
木というと大きく茂った葉っぱや枝ばかりに目がいきがちですが、表面には見えなくても木をしっかりと支える根という存在があることに思いを馳せたものでした。「地下水を根から吸い上げて空にかえす」という言葉もまた、大宇宙の大きな循環を表していると読み取ることもできます。人間は豊かな文明を築き上げてきましたが、一人ひとりは自然の一部にすぎません。
人生をまっとう、いずれ土に還る日がやってきます。そのように考えると、私たちは一人の例外なく目に見えない大きな存在によって生かされていることをしっかり認識するところに、人生の真の意味を見出すことができるのだと思います。
そして、もう一つ忘れてならないのが、すべての人は、ちょうど五本の指が手のひらで繋がっているように魂の深いところで皆つながっているという真実です。
「若木/老樹 /ひとつとして同じ木がない /ひとつとして同じ星のひかりのなかで /目ざめている木はない」
という一説は、人間そのもののたとえなのです。
木にどれ一つ同じものがないように、私たち人間も似たような姿形、似たような指向性の人はいても、すべてがまったく同じという人は一人もいません。肌の色も考え方も違う人たちが、それぞれに天から与えられた役割を果たしながら一つのタペストリーを織り上げていくのが人間社会の姿なのです。
木を眺めながら、大宇宙にまで思いを馳せていた詩人は、最後に「木/ぼくはきみのことを好きだ」という素直な思いを吐露します。この言葉は、古代から今日まで木に親しみ、慈しみ、自分たちの分身のように思って育んできた日本人の心の声のように響いてきます。
名もない草花も素晴らしい芸術作品
自然の中のでいきいきと溢れる命の波動は現代の競争社会に疲れた私たちの心を癒し、素直にしてくれます。道端に咲く名もない草花であっても、心の目で見るとどのような芸術家も及ばないようなすばらしい芸術作品であり、尊い価値を秘めているのです。
おおらかな気持ちで自然の摂理を受け入れて、その摂理に沿いながら自分という存在を生かしきっていく。それが私たちの理想的な生き方であり『木』と題された詩も私たちにそのことを教えてくれるように思います。
最近、私は五木博之さんが書かれた『選択の時代』という本を興味深く読みました。その本での五木さんのお話は詰まるところ、この混沌とした時代の中で本当に頼りにできるのは、自分だけ、ならば人生で幸せになる道を選択する知恵をもたなくてはいけない、という想いを伝える内容でした。
人生の難しい選択を迫られたとき、さりげない自然の情景や草花、虫たちの囁きに耳を傾けることで、思わぬヒントが得られることもあります。深い心で生命の本質に触れようとすることは,幸せになる道を自ら選択する上でとても大事なことなのです。
「人生を照らす言葉」の中の一文を紹介したい。
40数年「木」との関わりを生業としているが、この詩を読んで、私たちの生き方にも通じると感じました。
詩の解説は、長文でありましたので一部を抜粋して掲載しております。
『木』 詩人でもあり随筆家、翻訳家としても知られる田村隆一(1923~1998)
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁(ささや)いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸い上げて
空にかえすはずがない
若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星のひかりのなかで
目ざめている木はない
木
ぼくはきみのことが大好きだ
太古から木は人間と密接な関係にありました。私たちはいちばん身近にある木を通して 大自然と交流し、そこにある命を感じ取っています。日常生活で「木の温もり」という言葉を よく使いますが、金属やプラスチックの椅子、テーブルにはない温もりや命を甦せ、癒してくれる力を木製の家具から感じ取れるのは、私たちが大自然と交流している証拠なのです。
寺社など歴史的建造物にしても同じことがいえるでしょう。奈良の正倉院を訪れた人であれば、 縦横に組み合わされた木の命が千年以上生き続けていることを理屈抜きに感じるに違いありません。
皆さんは木や草花は人間の気持ちがわかるという話を聞かれたことはないでしょうか。 「可愛いね」 「よく育ってね」と話しかけながら育てていたところ、花たちは見る見るうちに元気になっていきましたと。
北海道の白樺はとっても折れやすい性質を持っており、そこで強風でも倒れないように、 五、六本がお互い絡み合うようにして生長するのです。これも木同士、健気に意思を通わせているのでしょうか。 自然の神秘にはただ驚かされるばかりです。
木は愛とか正義とかわめかない
このように木は黙っているから、歩いたり走ったりしないからといって、決して無機質的な存在というわけなく、生命力に満ち溢れているのです。作者の田村氏はミステリー小説の翻訳で知られ、私生活面でも破天荒の人生を送った人ですが、詩人が持ち合わせる少年のような純真な心で木々のメッセージを掴み取っていったのでしょう。
私は「木は愛とか正義とかわめかない」という一説を読みながら、東日本大震災の被災地を訪れた時を思い出しました。被災地では何人もの方から「正義をかざす人ほど困ったものはない」という声を聴きました。被災地に乗り込んで一方的に放射能の恐怖などを声高に叫び続けるような人たちをたくさん見てきたというのです。正義を口走った時に生まれるのは調和ではなく、分裂や闘争心。だから、「正義とわめかないでほしいと頼みたくなる」というのが被災地の方々の本音でした。
正義を振りかざす人たちを見つめながらも、木々はただ黙ってそこに立っているだけです。「その考えが正しい」とも「間違っている」とも主張するわけではありませんが、深い心でその声を感じ取っていくと、大自然の心が伝わってくるはずです。愛とも正義とも言わないけれど も、それらのすべてを包み込むような大きさや豊かさのようなものが感じられるのではないでしょうか。
「木はたしかにわめかないが/木は/愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて/枝にとまるはずがない/正義そのものだそれでなかったら地下水を根から吸い上げて/空にかえすはずがない」
大学のキャンパスのある樹齢何百年という木の傍に立っていると、作者と同様、無言のままメッセージを発し続ける木の姿は、無言の安堵感や癒しを与える神からの愛を送り続けていると実感します。 木々の囁きを通してより身近に感じる気がするのです。
誰一人として同じ人はいない
このように一本の木を通して私たちは多くの心理を学び、感じ取ることができます。作者は「地下水を根から吸い上げて空にかえす」という木の働きを思いながら、すべては大自然の中にに生かされており、その調和力を発揮することが正義であるという考えに至るのですが、これもその気づきの一つでしょう。
私は以前、台湾の中学校を訪問した時、十㍍も二十㍍も間隔をおきながら校庭に木を植えている様子を見ました。垣根になるような木や防風林になる木は間隔を空けないというイメージがありましたから、不思議に思って校長先生に聞いてみると、「この木はとても高く育ちます。一番高くなった時の約3倍の長さの土地を与えないと根が張れなくなるのです」という答えが返ってきました。
木というと大きく茂った葉っぱや枝ばかりに目がいきがちですが、表面には見えなくても木をしっかりと支える根という存在があることに思いを馳せたものでした。「地下水を根から吸い上げて空にかえす」という言葉もまた、大宇宙の大きな循環を表していると読み取ることもできます。人間は豊かな文明を築き上げてきましたが、一人ひとりは自然の一部にすぎません。
人生をまっとう、いずれ土に還る日がやってきます。そのように考えると、私たちは一人の例外なく目に見えない大きな存在によって生かされていることをしっかり認識するところに、人生の真の意味を見出すことができるのだと思います。
そして、もう一つ忘れてならないのが、すべての人は、ちょうど五本の指が手のひらで繋がっているように魂の深いところで皆つながっているという真実です。
「若木/老樹 /ひとつとして同じ木がない /ひとつとして同じ星のひかりのなかで /目ざめている木はない」
という一説は、人間そのもののたとえなのです。
木にどれ一つ同じものがないように、私たち人間も似たような姿形、似たような指向性の人はいても、すべてがまったく同じという人は一人もいません。肌の色も考え方も違う人たちが、それぞれに天から与えられた役割を果たしながら一つのタペストリーを織り上げていくのが人間社会の姿なのです。
木を眺めながら、大宇宙にまで思いを馳せていた詩人は、最後に「木/ぼくはきみのことを好きだ」という素直な思いを吐露します。この言葉は、古代から今日まで木に親しみ、慈しみ、自分たちの分身のように思って育んできた日本人の心の声のように響いてきます。
名もない草花も素晴らしい芸術作品
自然の中のでいきいきと溢れる命の波動は現代の競争社会に疲れた私たちの心を癒し、素直にしてくれます。道端に咲く名もない草花であっても、心の目で見るとどのような芸術家も及ばないようなすばらしい芸術作品であり、尊い価値を秘めているのです。
おおらかな気持ちで自然の摂理を受け入れて、その摂理に沿いながら自分という存在を生かしきっていく。それが私たちの理想的な生き方であり『木』と題された詩も私たちにそのことを教えてくれるように思います。
最近、私は五木博之さんが書かれた『選択の時代』という本を興味深く読みました。その本での五木さんのお話は詰まるところ、この混沌とした時代の中で本当に頼りにできるのは、自分だけ、ならば人生で幸せになる道を選択する知恵をもたなくてはいけない、という想いを伝える内容でした。
人生の難しい選択を迫られたとき、さりげない自然の情景や草花、虫たちの囁きに耳を傾けることで、思わぬヒントが得られることもあります。深い心で生命の本質に触れようとすることは,幸せになる道を自ら選択する上でとても大事なことなのです。
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